大宜味村津波区の豊年祭 2025
2025年10月4日、大宜味村津波区の豊年祭を見学。
道ジュネー、琉球舞踊などを楽しめました。

津波の豊年祭は、以前は3日間、仕込み(旧暦8月9日)、正日(旧暦8月10日)、別れ(旧暦8月11日)の日程で行われていました。
現在は、2年毎に正日を、本来の日程に近い週末に行っています。
午後6時、道ジュネーが、津波公民館前で始まりました。
まずは、公民館前で旗頭を中心にしてグルグル周ります。

旗頭を先頭に、道ジュネーが出発。
お宮を見目指しますが、一旦逆方向へ向かいました。


海沿いの国道58号線に出た所で、再度グルグル周りました。
夕焼けが奇麗で、道ジュネーが幻想的でした。

道を引き返して、お宮方面へ。


お宮を通り越して、反対側の国道58号線に出た所で、再度グルグル。


お宮でもグルグル周りました。

お宮には、マキュウの神の殿と阿舎慶があります。
下の写真で、殿は左側奥の建物で、阿舎慶は中央の建物です。
マキュウは津波で一番位の高い神様で、殿は阿舎慶よりも高い位置にあります。
阿舎慶には、平南村と津波村の神アサギが合祀されています。
※平南村は、明治時代に津波村に併合しました。
殿と平南村と津波村の神アサギは、共に昭和8年に現在位置に移されました。

お宮の前で、カチャーシー。

道ジュネーの様子は、以下の動画をご覧ください。
午後6時半頃、お宮横の野外舞台で、マキュウの神への御願が行われました。

集合写真の撮影。

午後7時、奉納舞踊が始まりました。
まずは、豊年祭で定番の「長者の大主」。
大主が、祝言(口上)を述べます。

若衆による「扇舞」。

男踊りでは、ウチナー口の囃子が入っていました。


続いて、二才踊「上り口説」。
琉球の役人が薩摩藩に出張する際の道行(首里観音堂~山川港)を歌っています。


若衆踊「こてい節」。
こてい(特牛)は、「ことひの牛」のことで、壮健な牡牛を意味しています。
元服前の若衆の、これからの人生の幸先を寿ぎます。


二才踊「下り口説」。
「上り口説」とは逆に、琉球の役人が薩摩藩から琉球へ帰る道中が歌われています。


奉納舞踊の最後は、大蛇退治の劇「大主」。
津波城の伝説に基づいた劇で、津波の豊年祭では、戦前から必ず演じられてきました。
伝説の内容は、津波城の山に大蛇が住んでいて、村人を苦しめていました。
琉球出身で大和で修業をしたシュンクワ和尚(スンクワ御僧)が、小坊主を連れて国頭へ行く途中で津波村に立ち寄ります。
シュンクワ和尚が、村の頭に大蛇のいる所を案内をしてもらい、お経を唱えて大蛇を退治したという伝説です。


続いて、余興の始まりです。
演目1、幕開け斉唱(津波三線愛好会)。
演目2、雑踊「谷茶前」。
明治27年頃に、玉城盛重が創ったと云われています。
漁村の日常を描いた踊り。


演目3、創作舞踊「かたみ節」。
元は、八重山の島唄です。
かたみは、契りを固めるという意味。
戦後、劇団「大伸座」の演目としてよく演じられました。


演目4、民謡(津波民謡愛好会)。
演目5、創作舞踊「安里屋ユンタ」。
古謡「安里屋ユンタ」に三線の伴奏が付いて節歌化したのが「安里屋節」です。
昭和9年に、標準語の安里屋ユンタ(作詞・星克、編曲・宮良長包)が発表されて広く知られるようになりました。

演目6、雑踊「むんじゅる」。
中踊の「むんじゅる節」は、粟国島の島唄です。
玉城盛重が振り付けを行い、仲毛芝居で踊られて人気を博しました。


演目7、太極拳。
演目8、寸劇「あぶじゃーま」。


演目9、女踊「瓦屋」。
別名「月見踊り」とも呼ばれています。
中踊の「瓦屋節」は、悲恋物語として劇や映画の題材になっています。


演目10、和太鼓(永山流和太鼓)。

演目11、カチャーシー。

午後9時過ぎに、豊年祭が終了しました。
とても素晴らしい豊年祭で、古我知の地域の皆さんに感謝です。

地図をGoogleマップで表示
道ジュネー、琉球舞踊などを楽しめました。

津波の豊年祭は、以前は3日間、仕込み(旧暦8月9日)、正日(旧暦8月10日)、別れ(旧暦8月11日)の日程で行われていました。
現在は、2年毎に正日を、本来の日程に近い週末に行っています。
午後6時、道ジュネーが、津波公民館前で始まりました。
まずは、公民館前で旗頭を中心にしてグルグル周ります。

旗頭を先頭に、道ジュネーが出発。
お宮を見目指しますが、一旦逆方向へ向かいました。


海沿いの国道58号線に出た所で、再度グルグル周りました。
夕焼けが奇麗で、道ジュネーが幻想的でした。

道を引き返して、お宮方面へ。


お宮を通り越して、反対側の国道58号線に出た所で、再度グルグル。


お宮でもグルグル周りました。

お宮には、マキュウの神の殿と阿舎慶があります。
下の写真で、殿は左側奥の建物で、阿舎慶は中央の建物です。
マキュウは津波で一番位の高い神様で、殿は阿舎慶よりも高い位置にあります。
阿舎慶には、平南村と津波村の神アサギが合祀されています。
※平南村は、明治時代に津波村に併合しました。
殿と平南村と津波村の神アサギは、共に昭和8年に現在位置に移されました。

お宮の前で、カチャーシー。

道ジュネーの様子は、以下の動画をご覧ください。
午後6時半頃、お宮横の野外舞台で、マキュウの神への御願が行われました。

集合写真の撮影。

午後7時、奉納舞踊が始まりました。
まずは、豊年祭で定番の「長者の大主」。
大主が、祝言(口上)を述べます。

若衆による「扇舞」。

男踊りでは、ウチナー口の囃子が入っていました。


続いて、二才踊「上り口説」。
琉球の役人が薩摩藩に出張する際の道行(首里観音堂~山川港)を歌っています。


若衆踊「こてい節」。
こてい(特牛)は、「ことひの牛」のことで、壮健な牡牛を意味しています。
元服前の若衆の、これからの人生の幸先を寿ぎます。


二才踊「下り口説」。
「上り口説」とは逆に、琉球の役人が薩摩藩から琉球へ帰る道中が歌われています。


奉納舞踊の最後は、大蛇退治の劇「大主」。
津波城の伝説に基づいた劇で、津波の豊年祭では、戦前から必ず演じられてきました。
伝説の内容は、津波城の山に大蛇が住んでいて、村人を苦しめていました。
琉球出身で大和で修業をしたシュンクワ和尚(スンクワ御僧)が、小坊主を連れて国頭へ行く途中で津波村に立ち寄ります。
シュンクワ和尚が、村の頭に大蛇のいる所を案内をしてもらい、お経を唱えて大蛇を退治したという伝説です。


続いて、余興の始まりです。
演目1、幕開け斉唱(津波三線愛好会)。
演目2、雑踊「谷茶前」。
明治27年頃に、玉城盛重が創ったと云われています。
漁村の日常を描いた踊り。


演目3、創作舞踊「かたみ節」。
元は、八重山の島唄です。
かたみは、契りを固めるという意味。
戦後、劇団「大伸座」の演目としてよく演じられました。


演目4、民謡(津波民謡愛好会)。
演目5、創作舞踊「安里屋ユンタ」。
古謡「安里屋ユンタ」に三線の伴奏が付いて節歌化したのが「安里屋節」です。
昭和9年に、標準語の安里屋ユンタ(作詞・星克、編曲・宮良長包)が発表されて広く知られるようになりました。

演目6、雑踊「むんじゅる」。
中踊の「むんじゅる節」は、粟国島の島唄です。
玉城盛重が振り付けを行い、仲毛芝居で踊られて人気を博しました。


演目7、太極拳。
演目8、寸劇「あぶじゃーま」。


演目9、女踊「瓦屋」。
別名「月見踊り」とも呼ばれています。
中踊の「瓦屋節」は、悲恋物語として劇や映画の題材になっています。


演目10、和太鼓(永山流和太鼓)。

演目11、カチャーシー。

午後9時過ぎに、豊年祭が終了しました。
とても素晴らしい豊年祭で、古我知の地域の皆さんに感謝です。
地図をGoogleマップで表示
← 前の記事:名護市の古我知区豊年祭 2025