1958年7月に八重山で撮影された芹沢銈介と門下生4人の写真を発見!
1958(昭和33)年7月に八重山で撮影された芹沢銈介(型絵染の人間国宝)と4人の門下生(中村操、椿夏子、山崎一恵、楠田喜代子)の写真を発見!
当時、八重山琉米文化会館に勤務していた名嘉地義昭の自費出版の自伝『私の自画像』(名嘉地義昭 2010.7)に、芹沢一行の写真が掲載されていました。
※芹沢は、自身で竹富島などで写真を撮影したそうなので、もしかしたら珍しい写真ではないかも…汗

「染色家 芹沢銈介氏(人間国宝)と女性研究生一行 1958(昭和33)年7月」 出典:『私の自画像』(名嘉地義昭 2010.7) ※芹沢銈介と門下生4人の写真の撮影者は不明です。
出典『私の自画像』の「あとがき」に、西表信から写真などを提供してもらったと記述されているので、西表信が所蔵していた写真かもしれません。
芹沢銈介は、「芹沢銈介染色作品展」(1958年6月27日~29日、タイムスホール、沖縄タイムス社主催・琉球国際美術家連盟後援)で3度目の来沖をしました。
(琉球国際美術家連盟は、資料によって琉球国際美術協会と記述。)
同行した門下生4人も、「このはな会染色展」(1958年6月28日~30日、那覇琉米文化会館、琉球国際美術家連盟主催、沖縄タイムス社後援)を開催しました。
芹沢一行は、7月2日にCAT機(Civil Air Transport 民航空運公司)で石垣島へ移動し、崎山寛起宅に4泊滞在しました。
(山崎一恵の回想では、3泊と記述。『芹沢銈介全集 月報 15』)
芹沢は、ズボン、開襟シャツ、下駄履き、麦わら帽子の軽装で、きりっとした痩身に白髪、縁の黒いロイド眼鏡をかけていました。
西表信(琉球国際美術家連盟八重山支部会員、彫塑家)が石垣島、与那国清介(竹富島区長)が竹富島を案内をしました。
芹沢は、当初「八重山へは特に要件という程のこともなかったが沖縄まで来たついでに八重山へ足を延ばした。」そうです。
しかし竹富島に到着すると、「緑が濃いねー、実に良い所だねー」とすぐに竹富島を気に入りました。
竹富島では、芹沢は、蘇鉄や樹木、また4人の門下生を呼び止めて写真を撮ったりしたそうです。
芹沢一行は、7月6日に那覇へ戻り、7月9日に泊港から本土へ帰郷しました。
芹沢銈介の八重山日程(1958年):
7月2日、那覇から石垣島に到着。市内古文化財などを視察。崎山寛起宅に投宿。
7月3日、石垣島を一周。
7月4日、竹富島を日帰り視察し、与那国清介(竹富島区長)宅を訪問。宮良当智(宮良殿内の当主)宅で茶話会(午後8時半~)。
7月5日、八重山高校(午前)および八重山琉米文化会館(午後8時半~)で講演会。
7月6日、石垣島から那覇へ。喜久山添釆宅を訪問。
7月9日、沖縄丸で泊港を出港(正午)。
参考資料:
・『芹沢銈介と沖縄』(静岡市立芹沢銈介美術館 2023.3)
・『芹沢銈介全集 月報 15』(中央公論社 1981.10)pp.1-6「回想15「このはな会」あれこれ 座談会 五木田智子 高木明子 椿夏子 中村操 山崎一恵」
・『私の自画像 My Self-Portrait』(名嘉地義昭/著 名嘉地義昭 2010.7)口絵, pp.143-144,203-204
・『今日の琉球 第2巻第9号』(琉球列島米国民政府渉外報道局出版課 1958.9)pp.12-13「沖縄の印象 芹沢先生にお伴して 楠田喜代子」
・『沖縄タイムス』1958年6月27日付夕刊3面

「すばらしさに圧倒 芹沢氏”染色作品展”開く」
「沖縄タイムス社主催、琉球国際美術協会後援の芹沢けい介氏染色作品展は、二十七日あさ九時から三日間の幕を開いた。…琉球国際美術協会主催、沖縄タイムス後援の芹沢けい介門下生による「このはな会染色展」はあす二十八日から三日間毎日あさ九時からよる九時まで那覇琉米文化会館で開かれる。…」
・『八重山毎日新聞』1958年7月3日付2面

「紅型研究の権威 東京美大芹沢教授来島」
「琉球紅型研究の権威者、指定人間文化財として国宝的芹沢けい介氏が、門下生中村操、椿夏子、山崎一恵、楠田喜代子さんら国展クラスの工芸□たちを同伴、きのう下りCAT機で来島した。これは琉球国際美術家連盟が沖縄タイムス社と協力して計画した芸術家交換の先陣として訪問したもので…なお同氏らは四泊五日のスケジュールで石垣島、竹富島などの古文化財を視察、五日午前は高校で、午后八時半からは文館で一般に対し講演する」
・『八重山タイムス』1958年7月4日付2面

「紅型研究の権威 せり沢けい介氏来島」
「一昨二日のCATですばらしいお客様が来島した。このところ文化人の来島で平得飛行場は賑つているが昨日のCATは紅型研究の権威者、指定人間文化財として国宝的なせり沢けいすけ氏とその門下生中村操、つばき夏子、山崎一恵、くす田喜代子など国展クラスの工芸家を運んだ。これは琉球国際美術家連盟が沖縄タイムすと協力して計画した芸術家交換の先陣として訪問されたものでタイムすホールで催された工芸展はすばらしい人気であつた。…崎山寛起氏宅に投宿中であるが滞在中のすケージュールは左のとおり、四日(金)竹富島視察、工芸品、芸術品の見学 午后八時半宮良当智氏宅で一行を囲み茶話会 五日(土)午前八重山高校で講演会 午后八時半文化会館で一般へ講演会。」
・『八重山毎日新聞』1958年7月6日付2面

「観光に好適だ 芹沢氏 石垣の町を称える」
「琉球紅型研究家の芹沢けい介氏は去る二日に来島し市内古文化財などを視察した後三日石垣島を一周、四日は竹富島を視察投宿先で次のように語った 八重山へは特に要件という程のこともなかったが沖縄まで来たついでに八重山へ足を延ばした。南方的風物に接したいことと、八重山上布、竹富の芭蕉布など実地に見聞したかった。八重山島全体が庭園のような形で美しい印象を受けた。本島ではあまり見られない石垣でかこまれた家など地域を選定し観光に役立てるとよいと思う。また八重山上布、芭蕉布など次第に影がうすくなりつゝあると聞いてるが、紅型などと共に保存すべきである。こういった長い歴史と伝統を持っている工芸は、時代の進歩にそのまゝもち続けるということはむずかしいかも知れないが伝統によりどころを持ち質にしても、柄にしても本質を忘れない心構えが必要である。島の人がもっと関心を持つべきであると強調した。」
・『八重山タイムス』1958年7月6日付2面

「さすが民芸の島 せり沢教授竹富視察」
「目下、来島中の東京女子美術大せり沢教授は、一昨日民芸の島である竹富島を視察次のように感想を述べた 石垣島に較べて竹富島の緑は実に濃いように感じた、民芸の島だけあつて種々なものが保存されている。舞踊などは、そぼくな点が非常に良いと思つた。織物なども古色が残つている。ばしよう布はもつと普及して行くよう奨励すべきである。柄などは竹富独特なものだ要するに問屋筋の注文柄にまどわされず、竹富独特の持味を生かして行くべきだと思う。これだけ古色味が保存されている島があるのは一寸珍らしい。島の民芸を保存して行くよう心がけるべきである、」

「記者のメモ」
「人間文化財に指定されている目下来島中のせり沢教授、何処を視察するのにも、ズボンと開きんしやつに麦わら帽をかぶり、下駄ばきでかつ歩される。竹富島に渡つた時いきなり言つたのが「緑が濃いねー、実に良い所だねー」と一見して竹富にゾツコンぼれ。畑の中にあるそ鉄、変つた樹木をカメラにおさめ、果ては四人の門下生の歩くのを後ろから呼び止めてシャツターを切つていた、桟橋から部落まで歩いた四人の門下生、「暑さまで石垣と変つている。一層のこと与那国まで行きたくなつちゃつたわ」とチヤンポンを吹きながら与那国竹富区長宅に入つた。人間文化財のせり沢教授、落着く間もなくカメラを肩にブラリと出て、二十分位して帰つて来た、坐つている門下生に「ここは変つたものがある、坐つてばかりいないで、君達も早く廻つて来なさい。」と気合をかけた。矢張り人間文化財ともなれば見るところが違つていると案内役の与那国竹富町長さんは感心していた」
・『沖縄タイムス』1958年7月9日付夕刊3面

「染色の芹沢氏ら帰る にぎわったけさの泊港」
「九日正午泊出港の沖縄丸は琉球国際美術協会が招待した芹沢けい介氏、門下生の中村操、山崎一恵さん…にぎやかに出港した。さる二十三日来島した紅型研究家芹沢けい介氏ら一行は約十五日間にわたる紅型の研究や沖縄タイムス社主催展覧会各種の講演会を終えて帰京した。芹沢氏らは本島だけでなく八重山石垣市などを訪れ老人の間で行われている旧式の織物を現地で見てきた。出発に先だち、同氏は沖縄における印象を次のように語った。「これまで二回にわたって沖縄を訪れたが、こんどの訪問で私の紅型にたいする実験の勉強を終えたつもりだ。本島で壺屋を中心に行われている陶器や若い人々の間にひろがっている芸術の研究心には感心させられた。また八重山では、老母が昔ながらの方式で藍染をしているのはなつかしかった。帰京してからも沖縄との関係をいっそう深め、私の紅型に対する研究を完全なものにしたい」」
当時、八重山琉米文化会館に勤務していた名嘉地義昭の自費出版の自伝『私の自画像』(名嘉地義昭 2010.7)に、芹沢一行の写真が掲載されていました。
※芹沢は、自身で竹富島などで写真を撮影したそうなので、もしかしたら珍しい写真ではないかも…汗

「染色家 芹沢銈介氏(人間国宝)と女性研究生一行 1958(昭和33)年7月」 出典:『私の自画像』(名嘉地義昭 2010.7) ※芹沢銈介と門下生4人の写真の撮影者は不明です。
出典『私の自画像』の「あとがき」に、西表信から写真などを提供してもらったと記述されているので、西表信が所蔵していた写真かもしれません。
芹沢銈介は、「芹沢銈介染色作品展」(1958年6月27日~29日、タイムスホール、沖縄タイムス社主催・琉球国際美術家連盟後援)で3度目の来沖をしました。
(琉球国際美術家連盟は、資料によって琉球国際美術協会と記述。)
同行した門下生4人も、「このはな会染色展」(1958年6月28日~30日、那覇琉米文化会館、琉球国際美術家連盟主催、沖縄タイムス社後援)を開催しました。
芹沢一行は、7月2日にCAT機(Civil Air Transport 民航空運公司)で石垣島へ移動し、崎山寛起宅に4泊滞在しました。
(山崎一恵の回想では、3泊と記述。『芹沢銈介全集 月報 15』)
芹沢は、ズボン、開襟シャツ、下駄履き、麦わら帽子の軽装で、きりっとした痩身に白髪、縁の黒いロイド眼鏡をかけていました。
西表信(琉球国際美術家連盟八重山支部会員、彫塑家)が石垣島、与那国清介(竹富島区長)が竹富島を案内をしました。
芹沢は、当初「八重山へは特に要件という程のこともなかったが沖縄まで来たついでに八重山へ足を延ばした。」そうです。
しかし竹富島に到着すると、「緑が濃いねー、実に良い所だねー」とすぐに竹富島を気に入りました。
竹富島では、芹沢は、蘇鉄や樹木、また4人の門下生を呼び止めて写真を撮ったりしたそうです。
芹沢一行は、7月6日に那覇へ戻り、7月9日に泊港から本土へ帰郷しました。
芹沢銈介の八重山日程(1958年):
7月2日、那覇から石垣島に到着。市内古文化財などを視察。崎山寛起宅に投宿。
7月3日、石垣島を一周。
7月4日、竹富島を日帰り視察し、与那国清介(竹富島区長)宅を訪問。宮良当智(宮良殿内の当主)宅で茶話会(午後8時半~)。
7月5日、八重山高校(午前)および八重山琉米文化会館(午後8時半~)で講演会。
7月6日、石垣島から那覇へ。喜久山添釆宅を訪問。
7月9日、沖縄丸で泊港を出港(正午)。
参考資料:
・『芹沢銈介と沖縄』(静岡市立芹沢銈介美術館 2023.3)
・『芹沢銈介全集 月報 15』(中央公論社 1981.10)pp.1-6「回想15「このはな会」あれこれ 座談会 五木田智子 高木明子 椿夏子 中村操 山崎一恵」
・『私の自画像 My Self-Portrait』(名嘉地義昭/著 名嘉地義昭 2010.7)口絵, pp.143-144,203-204
・『今日の琉球 第2巻第9号』(琉球列島米国民政府渉外報道局出版課 1958.9)pp.12-13「沖縄の印象 芹沢先生にお伴して 楠田喜代子」
・『沖縄タイムス』1958年6月27日付夕刊3面

「すばらしさに圧倒 芹沢氏”染色作品展”開く」
「沖縄タイムス社主催、琉球国際美術協会後援の芹沢けい介氏染色作品展は、二十七日あさ九時から三日間の幕を開いた。…琉球国際美術協会主催、沖縄タイムス後援の芹沢けい介門下生による「このはな会染色展」はあす二十八日から三日間毎日あさ九時からよる九時まで那覇琉米文化会館で開かれる。…」
・『八重山毎日新聞』1958年7月3日付2面

「紅型研究の権威 東京美大芹沢教授来島」
「琉球紅型研究の権威者、指定人間文化財として国宝的芹沢けい介氏が、門下生中村操、椿夏子、山崎一恵、楠田喜代子さんら国展クラスの工芸□たちを同伴、きのう下りCAT機で来島した。これは琉球国際美術家連盟が沖縄タイムス社と協力して計画した芸術家交換の先陣として訪問したもので…なお同氏らは四泊五日のスケジュールで石垣島、竹富島などの古文化財を視察、五日午前は高校で、午后八時半からは文館で一般に対し講演する」
・『八重山タイムス』1958年7月4日付2面

「紅型研究の権威 せり沢けい介氏来島」
「一昨二日のCATですばらしいお客様が来島した。このところ文化人の来島で平得飛行場は賑つているが昨日のCATは紅型研究の権威者、指定人間文化財として国宝的なせり沢けいすけ氏とその門下生中村操、つばき夏子、山崎一恵、くす田喜代子など国展クラスの工芸家を運んだ。これは琉球国際美術家連盟が沖縄タイムすと協力して計画した芸術家交換の先陣として訪問されたものでタイムすホールで催された工芸展はすばらしい人気であつた。…崎山寛起氏宅に投宿中であるが滞在中のすケージュールは左のとおり、四日(金)竹富島視察、工芸品、芸術品の見学 午后八時半宮良当智氏宅で一行を囲み茶話会 五日(土)午前八重山高校で講演会 午后八時半文化会館で一般へ講演会。」
・『八重山毎日新聞』1958年7月6日付2面

「観光に好適だ 芹沢氏 石垣の町を称える」
「琉球紅型研究家の芹沢けい介氏は去る二日に来島し市内古文化財などを視察した後三日石垣島を一周、四日は竹富島を視察投宿先で次のように語った 八重山へは特に要件という程のこともなかったが沖縄まで来たついでに八重山へ足を延ばした。南方的風物に接したいことと、八重山上布、竹富の芭蕉布など実地に見聞したかった。八重山島全体が庭園のような形で美しい印象を受けた。本島ではあまり見られない石垣でかこまれた家など地域を選定し観光に役立てるとよいと思う。また八重山上布、芭蕉布など次第に影がうすくなりつゝあると聞いてるが、紅型などと共に保存すべきである。こういった長い歴史と伝統を持っている工芸は、時代の進歩にそのまゝもち続けるということはむずかしいかも知れないが伝統によりどころを持ち質にしても、柄にしても本質を忘れない心構えが必要である。島の人がもっと関心を持つべきであると強調した。」
・『八重山タイムス』1958年7月6日付2面

「さすが民芸の島 せり沢教授竹富視察」
「目下、来島中の東京女子美術大せり沢教授は、一昨日民芸の島である竹富島を視察次のように感想を述べた 石垣島に較べて竹富島の緑は実に濃いように感じた、民芸の島だけあつて種々なものが保存されている。舞踊などは、そぼくな点が非常に良いと思つた。織物なども古色が残つている。ばしよう布はもつと普及して行くよう奨励すべきである。柄などは竹富独特なものだ要するに問屋筋の注文柄にまどわされず、竹富独特の持味を生かして行くべきだと思う。これだけ古色味が保存されている島があるのは一寸珍らしい。島の民芸を保存して行くよう心がけるべきである、」

「記者のメモ」
「人間文化財に指定されている目下来島中のせり沢教授、何処を視察するのにも、ズボンと開きんしやつに麦わら帽をかぶり、下駄ばきでかつ歩される。竹富島に渡つた時いきなり言つたのが「緑が濃いねー、実に良い所だねー」と一見して竹富にゾツコンぼれ。畑の中にあるそ鉄、変つた樹木をカメラにおさめ、果ては四人の門下生の歩くのを後ろから呼び止めてシャツターを切つていた、桟橋から部落まで歩いた四人の門下生、「暑さまで石垣と変つている。一層のこと与那国まで行きたくなつちゃつたわ」とチヤンポンを吹きながら与那国竹富区長宅に入つた。人間文化財のせり沢教授、落着く間もなくカメラを肩にブラリと出て、二十分位して帰つて来た、坐つている門下生に「ここは変つたものがある、坐つてばかりいないで、君達も早く廻つて来なさい。」と気合をかけた。矢張り人間文化財ともなれば見るところが違つていると案内役の与那国竹富町長さんは感心していた」
・『沖縄タイムス』1958年7月9日付夕刊3面

「染色の芹沢氏ら帰る にぎわったけさの泊港」
「九日正午泊出港の沖縄丸は琉球国際美術協会が招待した芹沢けい介氏、門下生の中村操、山崎一恵さん…にぎやかに出港した。さる二十三日来島した紅型研究家芹沢けい介氏ら一行は約十五日間にわたる紅型の研究や沖縄タイムス社主催展覧会各種の講演会を終えて帰京した。芹沢氏らは本島だけでなく八重山石垣市などを訪れ老人の間で行われている旧式の織物を現地で見てきた。出発に先だち、同氏は沖縄における印象を次のように語った。「これまで二回にわたって沖縄を訪れたが、こんどの訪問で私の紅型にたいする実験の勉強を終えたつもりだ。本島で壺屋を中心に行われている陶器や若い人々の間にひろがっている芸術の研究心には感心させられた。また八重山では、老母が昔ながらの方式で藍染をしているのはなつかしかった。帰京してからも沖縄との関係をいっそう深め、私の紅型に対する研究を完全なものにしたい」」
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