那覇市の歓楽街「桜坂」で最初に桜を植えた時の新聞記事を発見!
那覇市牧志高台の新道路(現在の桜坂)で、初めて桜を植えている最中の新聞記事『沖縄タイムス』1952(昭和27)年2月7日付2面「桜並木で都市飾る 名も床し「桜坂通り」 将来は露天商店街に」を発見!
山城善光らの通り団が2週間前から桜を植え始めたそうなので、珊瑚座(現在の桜坂劇場)が完成する前の1952年1月後半から2月にかけて桜が植えられた事が分かりました。
桜は、今帰仁村呉我山のものを一本100円で69本購入したそうです。
また、この新道路を「桜坂通り」と命名したのも、この時期だと確認できました。

『沖縄タイムス』1952年2月7日付2面
「桜並木で都市飾る 名も床し「桜坂通り」 将来は露天商店街に」
「那覇市役所前通りと市場を結ぶ新しい道路(全長百二十間)が昨年末頃開通、□□は下水工事を残すのみで□んど完成しているが、こ□新道路の両側には桜の並木が植えつけられて道ゆく人たちの眼をひいている。これはこの通り団が市内の美化を計り二週間程前から今帰仁村呉我山の桜を一本百円で買取つて植えたもの現在四十四本が三間おきに植えられ、あと二五本植えつけるとのこと、そして通りの名前も「桜坂通り」と銘打って、那覇の名所の一つにしようというのがそのねらい、こゝにはオリオンサンゴ座の両劇場が出来るので、これを中心に市内の□路をこゝまで□ばさせようと通り団の副会長山城善行(ママ)氏は次のように語った現在市場内には立売りや、露店商人がむらがり、警察当局の手をやかしているので、こうした商人をこの通りの両わきに入れようと警察とも大体のところまで話合いがなされている、昼夜二部制も考慮中で、現在受付けを開始している、近い将来桜の並木と共に露天商人街としてこの通りを生かしたい(写真は市場側から見た桜坂)」
『沖縄タイムス』1952年2月7日付2面
【これまでに分かっていた事】
桜坂について、『那覇 戦後の都市復興と歓楽街』(加藤 政洋/著 フォレスト 2011.11)では以下の3点が書かれています。
1.『琉球新報』1952年2月15日の新聞記事から、珊瑚座*が完成する前に「桜坂通り」と呼ばれていたこと。
2.『琉球新報』1954年7月19日の新聞記事から、1952年2月に桜の苗木を植えたが枯れてしまい、翌1953年3月にも桜の成木を琉映館**の前に2本植えたが再び枯れてしまった。
3.『琉球新報』1955年12月30日の新聞記事から、1952年に山城善光さんが本部町伊豆味から桜を100本持ってきて植えたがトラックに轢かれてダメになり、翌1953年3月に大宜味村喜如嘉から桜の大木を十数本持ってきたが再びダメになってしまった。
【今回分かった事】
1954年と1955年の新聞記事は記者の記憶に依るものなので、最初に桜が植えられたとされる1952年当時の新聞記事を確認してみました。
その結果、『沖縄タイムス』1952年2月7日付2面の記事「桜並木で都市飾る 名も床し「桜坂通り」 将来は露天商店街に」を発見!
以下の事が、新たに分かりました。
1.珊瑚座が完成する前の1952年1月後半から2月にかけて、通り団(副団長・山城善光)によって今帰仁村呉我山の桜69本が植えられた。
2.最初に植えた桜の出所と本数が、『琉球新報』1955年12月30日の新聞記事(本部町伊豆味の桜100本)と異なる。
3.通りの名前を「桜坂通り」と名付けて、那覇の名所の一つにしようした。
*戦後の珊瑚座は、松劇団(団長・島袋光裕)と常盤座(座長・真喜志康忠)が合体したものです。戦後の珊瑚座の出資者(島袋光裕、鉢嶺喜次、親泊興照、山城善光、真喜志康忠)は、山城善光以外は戦前の珊瑚座(座長・真境名由康)の役者でした。千歳座の座長・親泊元清(戦前の珊瑚座の一員)も珊瑚座の仮公演の時に座員として確認できましたが、千歳座が戦後の珊瑚座に合体したのかは不明です。
**1953年3月の琉映館は間違いです。1952年3月28日から仮興行をしていた珊瑚座は、7月12日に杮落し公演を行いました。しかし、7月18日から劇場は休場して、劇団は地方巡業に出発。8月2日から劇場での映画の上映が始まり、1952年12月24日に正式に洋画専門封切館の珊瑚座となりました。その後、1953年12月25日に桜坂琉映館、1986年11月29日に桜坂シネコン琉映、2005年7月2日に桜坂劇場となりました。
参考資料:
・『那覇 戦後の都市復興と歓楽街』(加藤 政洋/著 フォレスト 2011.11)pp.147-163「変容する遊興文化 桜坂誕生の意味」
・『琉球新報』1952年2月15日付3面

「新沖縄の建設譜(9)殖える娯楽の殿堂 和洋折衷の珊瑚座」
「本格的な演劇の殿堂として那覇市四区桜坂どおりに建つ珊瑚座…同座の落成は多くの演劇愛好者たちの期待をあつめつつ完成への梯音も賑やかにひびいている(完成を急ぐ珊瑚座)」
・『琉球新報』1952年3月28日付4面


珊瑚座の広告
「御挨拶…三月二十八日(旧三月三日)桃の節句の吉日を□して蓋開け興行をする事に致しました。…合資会社 珊瑚座 島袋光裕 鉢嶺喜次 親泊興照 山城善光 真喜志康忠」「新築落成 愈々旧3月3日より賑々しく開場 珊瑚座 座員 島袋光裕 鉢嶺喜次 親泊興照 山城善光 真喜志康忠…親泊元清…」
・『沖縄タイムス』1952年7月12日付1面


珊瑚座の広告
「当さんご座も今まで仮興行を続けて参りましたが諸準備も完成しましたので本日茲に花々しく杮葺落興行を致す事になりました何卒倍旧の御ひいきを賜りますよう御挨拶労々御願い申し上げます 合資会社 さんご座 代表者 島袋光裕」
・『琉球新報』1952年7月18日付2面

珊瑚座の広告
「七月十八日より 映画上映準備の為め休演 劇団…地方巡業出発…映画…近日華々敷上映…珊瑚座」
・『琉球新報』1952年8月2日付4面

珊瑚座の広告
「珊瑚座が開館劈頭に贈る 一大ヒット版封切!…八月二日より」
・『琉球新報』1952年12月27日付1面


珊瑚座の広告
「珊瑚座は皆様の絶大なる御支援の下に常設劇場として発足致しましたが、時利あらず 事志と違い今般洋画専門封切館として再発足する事になりました。私達は此の機会に退社し、…一九五二年十二月二十七日 島袋光ゆう 鉢みね喜次 親泊興照 真喜志康忠│珊瑚座の再発足に当り謹しんで御挨拶申上げます…一九五二年十二月二十四日 洋画専門封切館 合資会社 さんご座 山城善光 大見謝恒宏 外社員一同」
「空前絶後の反響を呼んだ超巨篇 本日堂々封切!サンゴ座の第一弾遂にさく烈!…洋画専門封切館 珊瑚座」
・『琉球新報』1953年12月24日付4面

珊瑚座の広告
「明日封切 桜坂琉映館(旧サンゴ座)の再出発第一弾…琉映貿直営館 桜坂琉映館」
・『琉球新報』1954年7月19日付夕刊1面

「沖縄新風土記 無縁桜有縁酔歩」
「”桜坂”とはしゃれた名前をつけたものだと、知らない人は思う。知っている沖縄の人は少し恥ずかしいような気がする。六十本程の桜の苗木が植えられたのは一昨年の二月である。たちまち枯れてしまった去年の三月には琉映館の前に桜の成樹を二本植え、花まで咲いたけどやはり枯れてしまった。…」
・『琉球新報』1955年12月30日付夕刊2面

「あの町この街(26)咲いた咲いた夜桜が 狭い乍らも楽しい桜坂通り」
「”桜は咲かんのに桜坂とは何ぞ”とクイズにもなりそうだといわれるこの通り名の影には、桜の花のために捧げたなみだぐましいいくつかのエピソードがひめられている。それは木のない殺風景な那覇に、車から解放されて家族づれで散歩出来る桜並木を作ろうと山城善光さんが本部伊豆見(ママ)から桜の木を一〇〇本もってきたことからはじまる。一九五二年の事である。自らくわをにぎって通りに二間毎に植えた。やがて冬が来て一斉に芽をふいた。目をかがやかせ、”水をやるように、大事にするように”「きっと咲くぞ」□励に通りを朝夕かけまわる山城さんの姿がよくみられた。山城さんの脳裏には見事に咲いた桜のトンネルがあったのだ。然し復興でゴッタかえしていた当時の通り、トラックがむざんにも殆どを敷きたおしていった。”何くそ意地でも咲かせて見せるぞ”持前のねばり強い性格から翌年郷里の喜如嘉から桜の大木を十数本もってきた。…」

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山城善光らの通り団が2週間前から桜を植え始めたそうなので、珊瑚座(現在の桜坂劇場)が完成する前の1952年1月後半から2月にかけて桜が植えられた事が分かりました。
桜は、今帰仁村呉我山のものを一本100円で69本購入したそうです。
また、この新道路を「桜坂通り」と命名したのも、この時期だと確認できました。

『沖縄タイムス』1952年2月7日付2面
「桜並木で都市飾る 名も床し「桜坂通り」 将来は露天商店街に」
「那覇市役所前通りと市場を結ぶ新しい道路(全長百二十間)が昨年末頃開通、□□は下水工事を残すのみで□んど完成しているが、こ□新道路の両側には桜の並木が植えつけられて道ゆく人たちの眼をひいている。これはこの通り団が市内の美化を計り二週間程前から今帰仁村呉我山の桜を一本百円で買取つて植えたもの現在四十四本が三間おきに植えられ、あと二五本植えつけるとのこと、そして通りの名前も「桜坂通り」と銘打って、那覇の名所の一つにしようというのがそのねらい、こゝにはオリオンサンゴ座の両劇場が出来るので、これを中心に市内の□路をこゝまで□ばさせようと通り団の副会長山城善行(ママ)氏は次のように語った現在市場内には立売りや、露店商人がむらがり、警察当局の手をやかしているので、こうした商人をこの通りの両わきに入れようと警察とも大体のところまで話合いがなされている、昼夜二部制も考慮中で、現在受付けを開始している、近い将来桜の並木と共に露天商人街としてこの通りを生かしたい(写真は市場側から見た桜坂)」
『沖縄タイムス』1952年2月7日付2面
【これまでに分かっていた事】
桜坂について、『那覇 戦後の都市復興と歓楽街』(加藤 政洋/著 フォレスト 2011.11)では以下の3点が書かれています。
1.『琉球新報』1952年2月15日の新聞記事から、珊瑚座*が完成する前に「桜坂通り」と呼ばれていたこと。
2.『琉球新報』1954年7月19日の新聞記事から、1952年2月に桜の苗木を植えたが枯れてしまい、翌1953年3月にも桜の成木を琉映館**の前に2本植えたが再び枯れてしまった。
3.『琉球新報』1955年12月30日の新聞記事から、1952年に山城善光さんが本部町伊豆味から桜を100本持ってきて植えたがトラックに轢かれてダメになり、翌1953年3月に大宜味村喜如嘉から桜の大木を十数本持ってきたが再びダメになってしまった。
【今回分かった事】
1954年と1955年の新聞記事は記者の記憶に依るものなので、最初に桜が植えられたとされる1952年当時の新聞記事を確認してみました。
その結果、『沖縄タイムス』1952年2月7日付2面の記事「桜並木で都市飾る 名も床し「桜坂通り」 将来は露天商店街に」を発見!
以下の事が、新たに分かりました。
1.珊瑚座が完成する前の1952年1月後半から2月にかけて、通り団(副団長・山城善光)によって今帰仁村呉我山の桜69本が植えられた。
2.最初に植えた桜の出所と本数が、『琉球新報』1955年12月30日の新聞記事(本部町伊豆味の桜100本)と異なる。
3.通りの名前を「桜坂通り」と名付けて、那覇の名所の一つにしようした。
*戦後の珊瑚座は、松劇団(団長・島袋光裕)と常盤座(座長・真喜志康忠)が合体したものです。戦後の珊瑚座の出資者(島袋光裕、鉢嶺喜次、親泊興照、山城善光、真喜志康忠)は、山城善光以外は戦前の珊瑚座(座長・真境名由康)の役者でした。千歳座の座長・親泊元清(戦前の珊瑚座の一員)も珊瑚座の仮公演の時に座員として確認できましたが、千歳座が戦後の珊瑚座に合体したのかは不明です。
**1953年3月の琉映館は間違いです。1952年3月28日から仮興行をしていた珊瑚座は、7月12日に杮落し公演を行いました。しかし、7月18日から劇場は休場して、劇団は地方巡業に出発。8月2日から劇場での映画の上映が始まり、1952年12月24日に正式に洋画専門封切館の珊瑚座となりました。その後、1953年12月25日に桜坂琉映館、1986年11月29日に桜坂シネコン琉映、2005年7月2日に桜坂劇場となりました。
参考資料:
・『那覇 戦後の都市復興と歓楽街』(加藤 政洋/著 フォレスト 2011.11)pp.147-163「変容する遊興文化 桜坂誕生の意味」
・『琉球新報』1952年2月15日付3面

「新沖縄の建設譜(9)殖える娯楽の殿堂 和洋折衷の珊瑚座」
「本格的な演劇の殿堂として那覇市四区桜坂どおりに建つ珊瑚座…同座の落成は多くの演劇愛好者たちの期待をあつめつつ完成への梯音も賑やかにひびいている(完成を急ぐ珊瑚座)」
・『琉球新報』1952年3月28日付4面


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「御挨拶…三月二十八日(旧三月三日)桃の節句の吉日を□して蓋開け興行をする事に致しました。…合資会社 珊瑚座 島袋光裕 鉢嶺喜次 親泊興照 山城善光 真喜志康忠」「新築落成 愈々旧3月3日より賑々しく開場 珊瑚座 座員 島袋光裕 鉢嶺喜次 親泊興照 山城善光 真喜志康忠…親泊元清…」
・『沖縄タイムス』1952年7月12日付1面


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「当さんご座も今まで仮興行を続けて参りましたが諸準備も完成しましたので本日茲に花々しく杮葺落興行を致す事になりました何卒倍旧の御ひいきを賜りますよう御挨拶労々御願い申し上げます 合資会社 さんご座 代表者 島袋光裕」
・『琉球新報』1952年7月18日付2面

珊瑚座の広告
「七月十八日より 映画上映準備の為め休演 劇団…地方巡業出発…映画…近日華々敷上映…珊瑚座」
・『琉球新報』1952年8月2日付4面

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「珊瑚座が開館劈頭に贈る 一大ヒット版封切!…八月二日より」
・『琉球新報』1952年12月27日付1面


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「珊瑚座は皆様の絶大なる御支援の下に常設劇場として発足致しましたが、時利あらず 事志と違い今般洋画専門封切館として再発足する事になりました。私達は此の機会に退社し、…一九五二年十二月二十七日 島袋光ゆう 鉢みね喜次 親泊興照 真喜志康忠│珊瑚座の再発足に当り謹しんで御挨拶申上げます…一九五二年十二月二十四日 洋画専門封切館 合資会社 さんご座 山城善光 大見謝恒宏 外社員一同」
「空前絶後の反響を呼んだ超巨篇 本日堂々封切!サンゴ座の第一弾遂にさく烈!…洋画専門封切館 珊瑚座」
・『琉球新報』1953年12月24日付4面

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「明日封切 桜坂琉映館(旧サンゴ座)の再出発第一弾…琉映貿直営館 桜坂琉映館」
・『琉球新報』1954年7月19日付夕刊1面

「沖縄新風土記 無縁桜有縁酔歩」
「”桜坂”とはしゃれた名前をつけたものだと、知らない人は思う。知っている沖縄の人は少し恥ずかしいような気がする。六十本程の桜の苗木が植えられたのは一昨年の二月である。たちまち枯れてしまった去年の三月には琉映館の前に桜の成樹を二本植え、花まで咲いたけどやはり枯れてしまった。…」
・『琉球新報』1955年12月30日付夕刊2面

「あの町この街(26)咲いた咲いた夜桜が 狭い乍らも楽しい桜坂通り」
「”桜は咲かんのに桜坂とは何ぞ”とクイズにもなりそうだといわれるこの通り名の影には、桜の花のために捧げたなみだぐましいいくつかのエピソードがひめられている。それは木のない殺風景な那覇に、車から解放されて家族づれで散歩出来る桜並木を作ろうと山城善光さんが本部伊豆見(ママ)から桜の木を一〇〇本もってきたことからはじまる。一九五二年の事である。自らくわをにぎって通りに二間毎に植えた。やがて冬が来て一斉に芽をふいた。目をかがやかせ、”水をやるように、大事にするように”「きっと咲くぞ」□励に通りを朝夕かけまわる山城さんの姿がよくみられた。山城さんの脳裏には見事に咲いた桜のトンネルがあったのだ。然し復興でゴッタかえしていた当時の通り、トラックがむざんにも殆どを敷きたおしていった。”何くそ意地でも咲かせて見せるぞ”持前のねばり強い性格から翌年郷里の喜如嘉から桜の大木を十数本もってきた。…」
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