令和7年度 公事清明祭@伊是名島
2025年4月3日、伊是名島の伊是名玉御殿(第二尚氏の開祖・尚円王の親族を祀る御陵)で公事清明祭を見学。
琉球王家ゆかりの人達(尚円王の姉、叔父、叔母の末裔にあたる四殿内)等によって、厳かに執り行われました。
※尚円王は、首里玉陵に葬られているというのが通説です。

清明祭は、旧暦2月後半から3月前半の清明節に行われる先祖供養の儀式です。
一般の清明祭は墓前で食事をするピクニック的なものですが、伊是名玉御殿の公事清明祭は王家の為の厳粛なもの。
首里の玉陵では、1768年から清明祭が始まりました。
しかし伊是名玉御殿の清明祭は、首里王府から派遣された伊江王子朝直により行われた1870年からです。
翌年からは、四殿内(銘苅家、名嘉家、玉城家、伊礼家)によって続いています。
※1966年に伊是名玉御殿が伊是名村に寄贈されてからは、伊是名村主催となりました。
銘苅家は、尚円王の叔父(真三良・銘苅大屋子)の末裔。
名嘉家は、尚円王の姉(真世仁金・伊平屋の阿母加那志)の末裔。
玉城家は、尚円王の叔母(真世仁金・二かや田の阿母)の娘(姉・南風の二かや田の阿母)の末裔。
伊礼家は、尚円王の叔母(真世仁金・二かや田の阿母)の娘(妹・北の二かや田の阿母)の末裔。
※尚円王の姉と叔母は、同名です。
公事清明祭は、午前10時からなので、当日のフェリーだと間に合いません。
公事清明祭の前日に伊是名島に渡って、当日の午前8時半過ぎに伊是名玉御殿へ。

午前9時前頃に、伊是名玉御殿の門の鍵が開けられました。
※普段は立入禁止です。

供物や道具類を、伊是名村役場の人達がリレーで運びます。


粛々と準備が進みます。
公事清明祭の供物の種類とその位置は、首里王府時代から全て厳格に決まっています。
古文書『伊平屋島玉御殿公事帳』に、実施方法が図入りで記述されていたのがラッキーでした。
※古文書名では「伊平屋島」となっていますが、島の名前ではなく、昔の間切に相当する行政単位としての「伊平屋島」です。

供物のアヒルとニワトリは、各所に羽が3本づつ刺さっていて、雄限定だそうです。

供物のアグー豚。

公事清明祭で特徴的な道具が、「黄色地巴紋御玉貫」と「朱漆箔巴紋食籠」。
御玉貫は、祭祀儀礼の際に泡盛を入れる容器のこと。
錫瓶に、黄色などのビーズで編んだカバーで装飾されていて、奇麗ですね。

食籠(御籠飯)は、祭祀儀礼の際に花米を入れる容器のこと。
尚家の御紋が入った朱色の漆器は、正に琉球王家って感じです。
首里王府から下賜された御玉貫や食籠は、殆ど残っていないので貴重な品です。
※現在の公事清明祭では、本物ではなく複製品が使われています。

他に目を引く道具は、尚家の御紋が入った白い急須(チューカー)。
「白釉巴紋茶家」は、薩摩焼の酒器です。

青い水注は、「瑠璃釉朱泥水注」。
中国製の茶器に良く見られる形ですね。

玉御殿に向かって左側(東室)前の準備ができました。
東室には、尚円王の父(尚稷)、夫人(オギヤカ)、姉(伊平屋の阿母加那志)が葬られています。
※時代によって埋葬者が移されていて、最終的な埋葬者の詳細については未確定です。
尚円王夫人のオギヤカは、首里玉陵と伊是名玉御殿のどちらに眠っているのでしょうね。

続いて、玉御殿に向かって右側(西室)前の準備も完了。
西室には、以降1870年までの代々の銘苅大屋子(親雲上)、二かや田の阿母が葬られています。
※西室についても不詳の埋葬者が多く、今後の学術研究に期待です。

公事清明祭が始まる前に、西室で焼香が行われました。

午前10時頃、公事清明祭が始まりました。
代表者が拝礼をします。

続いて、中国香(ナガウコー)で焼香。


紙銭(ウチカビ)を燃やしました。

御玉貫から神酒を注ぎます。
※見学場所が混んでいて、身動きが出来ませんでした。
水注からお茶を注いだりしたはずですが、よく見えなかった…汗

代表者が、「四つ御拝」を行いました。
立って手を合わせた後に座る動作を4回繰り返します。
その後、他の参加者達も焼香を行いました。
下の写真は、公事清明祭後の様子。

帰りのフェリーまで時間があったので、伊是名島をレンタバイクで廻りました。

シラサギ展望台
マッテラの浜の近くにある「四殿内御拝領墓」。
1870年に四殿内に与えられましたが、大正期からは銘苅家のみが使用しています。
立派な亀甲墓で、石灰岩のヒンプンがあるのが珍しいですね。

四殿内御拝領墓

ギタラ展望台

伊是名島の道

龍の口(風の岩)からの眺め

神の岩座へ行く途中の休憩所
今年は琉球舞踊の奉納が無かったのが残念でしたが、当日に天気が回復したので助かりました。
次回は、琉球舞踊の奉納の有無を確かめてから見学しようと思います。

地図をGoogleマップで表示
琉球王家ゆかりの人達(尚円王の姉、叔父、叔母の末裔にあたる四殿内)等によって、厳かに執り行われました。
※尚円王は、首里玉陵に葬られているというのが通説です。

清明祭は、旧暦2月後半から3月前半の清明節に行われる先祖供養の儀式です。
一般の清明祭は墓前で食事をするピクニック的なものですが、伊是名玉御殿の公事清明祭は王家の為の厳粛なもの。
首里の玉陵では、1768年から清明祭が始まりました。
しかし伊是名玉御殿の清明祭は、首里王府から派遣された伊江王子朝直により行われた1870年からです。
翌年からは、四殿内(銘苅家、名嘉家、玉城家、伊礼家)によって続いています。
※1966年に伊是名玉御殿が伊是名村に寄贈されてからは、伊是名村主催となりました。
銘苅家は、尚円王の叔父(真三良・銘苅大屋子)の末裔。
名嘉家は、尚円王の姉(真世仁金・伊平屋の阿母加那志)の末裔。
玉城家は、尚円王の叔母(真世仁金・二かや田の阿母)の娘(姉・南風の二かや田の阿母)の末裔。
伊礼家は、尚円王の叔母(真世仁金・二かや田の阿母)の娘(妹・北の二かや田の阿母)の末裔。
※尚円王の姉と叔母は、同名です。
公事清明祭は、午前10時からなので、当日のフェリーだと間に合いません。
公事清明祭の前日に伊是名島に渡って、当日の午前8時半過ぎに伊是名玉御殿へ。

午前9時前頃に、伊是名玉御殿の門の鍵が開けられました。
※普段は立入禁止です。

供物や道具類を、伊是名村役場の人達がリレーで運びます。


粛々と準備が進みます。
公事清明祭の供物の種類とその位置は、首里王府時代から全て厳格に決まっています。
古文書『伊平屋島玉御殿公事帳』に、実施方法が図入りで記述されていたのがラッキーでした。
※古文書名では「伊平屋島」となっていますが、島の名前ではなく、昔の間切に相当する行政単位としての「伊平屋島」です。

供物のアヒルとニワトリは、各所に羽が3本づつ刺さっていて、雄限定だそうです。

供物のアグー豚。

公事清明祭で特徴的な道具が、「黄色地巴紋御玉貫」と「朱漆箔巴紋食籠」。
御玉貫は、祭祀儀礼の際に泡盛を入れる容器のこと。
錫瓶に、黄色などのビーズで編んだカバーで装飾されていて、奇麗ですね。

食籠(御籠飯)は、祭祀儀礼の際に花米を入れる容器のこと。
尚家の御紋が入った朱色の漆器は、正に琉球王家って感じです。
首里王府から下賜された御玉貫や食籠は、殆ど残っていないので貴重な品です。
※現在の公事清明祭では、本物ではなく複製品が使われています。

他に目を引く道具は、尚家の御紋が入った白い急須(チューカー)。
「白釉巴紋茶家」は、薩摩焼の酒器です。

青い水注は、「瑠璃釉朱泥水注」。
中国製の茶器に良く見られる形ですね。

玉御殿に向かって左側(東室)前の準備ができました。
東室には、尚円王の父(尚稷)、夫人(オギヤカ)、姉(伊平屋の阿母加那志)が葬られています。
※時代によって埋葬者が移されていて、最終的な埋葬者の詳細については未確定です。
尚円王夫人のオギヤカは、首里玉陵と伊是名玉御殿のどちらに眠っているのでしょうね。

続いて、玉御殿に向かって右側(西室)前の準備も完了。
西室には、以降1870年までの代々の銘苅大屋子(親雲上)、二かや田の阿母が葬られています。
※西室についても不詳の埋葬者が多く、今後の学術研究に期待です。

公事清明祭が始まる前に、西室で焼香が行われました。

午前10時頃、公事清明祭が始まりました。
代表者が拝礼をします。

続いて、中国香(ナガウコー)で焼香。


紙銭(ウチカビ)を燃やしました。

御玉貫から神酒を注ぎます。
※見学場所が混んでいて、身動きが出来ませんでした。
水注からお茶を注いだりしたはずですが、よく見えなかった…汗

代表者が、「四つ御拝」を行いました。
立って手を合わせた後に座る動作を4回繰り返します。
その後、他の参加者達も焼香を行いました。
下の写真は、公事清明祭後の様子。

帰りのフェリーまで時間があったので、伊是名島をレンタバイクで廻りました。

シラサギ展望台
マッテラの浜の近くにある「四殿内御拝領墓」。
1870年に四殿内に与えられましたが、大正期からは銘苅家のみが使用しています。
立派な亀甲墓で、石灰岩のヒンプンがあるのが珍しいですね。

四殿内御拝領墓

ギタラ展望台

伊是名島の道

龍の口(風の岩)からの眺め

神の岩座へ行く途中の休憩所
今年は琉球舞踊の奉納が無かったのが残念でしたが、当日に天気が回復したので助かりました。
次回は、琉球舞踊の奉納の有無を確かめてから見学しようと思います。
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