南風原町の津嘉山大綱曳き
2024年7月27-28日、南風原町の津嘉山大綱曳きが、21年ぶりに開催されました。
津嘉山の大綱引きでは、支度が乗ったチナブを、六尺棒で持ち上げるのが特徴です。
本やネットでは見たことがありましたが、実物は更に大迫力でした。
初日の7月27日、午前9時過ぎに、津嘉山地域振興資料館(津嘉山公民館)から御願廻りに同行。
まずは、津嘉山幼稚園の横にあるビジュルでの御願。
津嘉山の綱引きは、「長嶺按司の伝説」と深い関係があります。
ビジュルでの御願は、長嶺城跡への遥拝(お通し)とも云われています。
同行した鉦鼓隊のガーエー。
鉦鼓(ソーグ)とパーランクー、法螺貝の音が、響き渡ります。
津嘉山地域振興資料館に戻って休憩後、再びビジュルでの御願。
クボー御嶽へ。
クボー御嶽は、『琉球国旧記』ではコバウノ嶽(神名:ヨリアゲ森ノ御イベ)と記述された由緒ある御嶽です。
ここで、東と西に分かれたので、東に付いてイーチ御嶽へ。
『琉球国旧記』では、伊計之嶽(神名:メンノワウ森ノ御イベ)と記述されています。
次は、高津嘉山御嶽での御願。
『琉球国旧記』では、高津嘉山之嶽(神名:ヨチラノ森ノ御イベ)と記述されています。
集落に戻ってきて、ノロ殿内での御願。
この後、ウフヤー(大家)での御願がありました。
休憩後の午後2時頃、鉦鼓隊のガーエーが始まりました。
下の写真は、西の鉦鼓隊。
東の鉦鼓隊のガーエー。
休憩後、旗頭と鉦鼓隊を伴って、大殿内、高港で御願をしました。
東の一行の後、西の一行の順。
下の写真は、高港での御願です。
午後3時半頃、ノロ殿内での棒術の奉納。
午後4時、道ジュネー(旗頭、鉦鼓隊、女踊り)の始まり。
初日は東、2日目は西に付いて行きました。
東は、東御物構広場(東あしびなー公園)から出発して、津嘉山小学校まで練り歩きました。
下の写真は、出発前の東のシタク(支度)。
東の一番旗(旗字:國泰)の旗頭。
津嘉山の旗頭は、首里王府から頂いたグフェーローバタ(御拝領旗)です。
東の鉦鼓隊。
鉦鼓隊は、藁で編んだ草履を履いていました!
チジン太鼓を持った東の女踊り。
一方、西の道ジュネーは、西御物構広場(西あしびなー公園)から出発。 下の写真は、西の鉦鼓隊。
西のシタク。
鉦鼓隊の後ろに、沢山の白い旗が舞っているのが綺麗でした。
西の一番旗(旗字:太平)の旗頭。
西の女踊り。
道ジュネーが、津嘉山小学校の到着すると、グラウンドを回りました。
午後5時半過ぎ、銅鑼が鳴って、グーヤーマチが始まりました。
グーヤーマチは、スーマチ(総巻、集団で行う棒の演技)の一種で、津嘉山ではヤッチャイとも呼ばれています。
ヤッチャイは、綱引き前にカナチグチで、体をぶつけ合って境界線を突破しようと競い合うことです。
グーヤーマチに参加した人達が整列して、東西に分かれていきます。
3人の親子シタク(支度)が乗ったチニブ(竹で編んだ板)を、六尺棒で持ち上げます。
東のシタクは、「長嶺按司の伝説」だと、長嶺按司を倒した仲間按司ですね。
一方、西のシタクは、「長嶺按司の伝説」だと舟遊びをしていた長嶺按司かな。
東西の綱を結ぶ、綱寄せの始まり。
カナチ棒が入りました。
綱引きは、10分を超える大接戦でした。
勝利して喜ぶ東の人達。
会場は、東西入り乱れて、最高潮へ。
鉦鼓隊、旗頭、女踊りで盛り上がります。
落ち着いた後は、棒術。
東と一緒に、東御物構広場に戻ります。
光る旗頭が、幻想的でした。
東御物構広場でのガーエー。
2日目は、綱引きは行われずに、前日の綱からカナチ棒を抜いて、ティーンナ(手綱)を外しました。
これが、山垣綱曳き(子供綱引き)用の綱になります。
ティーンナを持って、山垣毛に移動する子供達。
子供達による山垣綱曳き。
綱が切れてしまいしたが、東の綱が切れたので、西の勝利になったようでした。
山垣橋に移動後、国場川の支流・長堂川に綱を流して厄払いをしました。
この辺りは、「長嶺按司の伝説」では、長嶺按司と仲間按司が戦った場所です。
津嘉山小学校に帰った後、西の道ジュネーで西御物構広場へ戻りました。
西の二番旗(旗字:豊歳)の旗頭。
道ジュネーは、ギュウギュウでした。笑
最後に、西御物構広場での鉦鼓隊のガーエー。
2日間、大綱引きを楽しめました。
この規模の綱引きを、南風原町ではなく、一つの字(津嘉山)で行っているのは凄いですね。
地図をGoogleマップで表示
津嘉山の大綱引きでは、支度が乗ったチナブを、六尺棒で持ち上げるのが特徴です。
本やネットでは見たことがありましたが、実物は更に大迫力でした。
初日の7月27日、午前9時過ぎに、津嘉山地域振興資料館(津嘉山公民館)から御願廻りに同行。
まずは、津嘉山幼稚園の横にあるビジュルでの御願。
津嘉山の綱引きは、「長嶺按司の伝説」と深い関係があります。
ビジュルでの御願は、長嶺城跡への遥拝(お通し)とも云われています。
同行した鉦鼓隊のガーエー。
鉦鼓(ソーグ)とパーランクー、法螺貝の音が、響き渡ります。
津嘉山地域振興資料館に戻って休憩後、再びビジュルでの御願。
クボー御嶽へ。
クボー御嶽は、『琉球国旧記』ではコバウノ嶽(神名:ヨリアゲ森ノ御イベ)と記述された由緒ある御嶽です。
ここで、東と西に分かれたので、東に付いてイーチ御嶽へ。
『琉球国旧記』では、伊計之嶽(神名:メンノワウ森ノ御イベ)と記述されています。
次は、高津嘉山御嶽での御願。
『琉球国旧記』では、高津嘉山之嶽(神名:ヨチラノ森ノ御イベ)と記述されています。
集落に戻ってきて、ノロ殿内での御願。
この後、ウフヤー(大家)での御願がありました。
休憩後の午後2時頃、鉦鼓隊のガーエーが始まりました。
下の写真は、西の鉦鼓隊。
東の鉦鼓隊のガーエー。
休憩後、旗頭と鉦鼓隊を伴って、大殿内、高港で御願をしました。
東の一行の後、西の一行の順。
下の写真は、高港での御願です。
午後3時半頃、ノロ殿内での棒術の奉納。
午後4時、道ジュネー(旗頭、鉦鼓隊、女踊り)の始まり。
初日は東、2日目は西に付いて行きました。
東は、東御物構広場(東あしびなー公園)から出発して、津嘉山小学校まで練り歩きました。
下の写真は、出発前の東のシタク(支度)。
東の一番旗(旗字:國泰)の旗頭。
津嘉山の旗頭は、首里王府から頂いたグフェーローバタ(御拝領旗)です。
東の鉦鼓隊。
鉦鼓隊は、藁で編んだ草履を履いていました!
チジン太鼓を持った東の女踊り。
一方、西の道ジュネーは、西御物構広場(西あしびなー公園)から出発。 下の写真は、西の鉦鼓隊。
西のシタク。
鉦鼓隊の後ろに、沢山の白い旗が舞っているのが綺麗でした。
西の一番旗(旗字:太平)の旗頭。
西の女踊り。
道ジュネーが、津嘉山小学校の到着すると、グラウンドを回りました。
午後5時半過ぎ、銅鑼が鳴って、グーヤーマチが始まりました。
グーヤーマチは、スーマチ(総巻、集団で行う棒の演技)の一種で、津嘉山ではヤッチャイとも呼ばれています。
ヤッチャイは、綱引き前にカナチグチで、体をぶつけ合って境界線を突破しようと競い合うことです。
グーヤーマチに参加した人達が整列して、東西に分かれていきます。
3人の親子シタク(支度)が乗ったチニブ(竹で編んだ板)を、六尺棒で持ち上げます。
東のシタクは、「長嶺按司の伝説」だと、長嶺按司を倒した仲間按司ですね。
一方、西のシタクは、「長嶺按司の伝説」だと舟遊びをしていた長嶺按司かな。
東西の綱を結ぶ、綱寄せの始まり。
カナチ棒が入りました。
綱引きは、10分を超える大接戦でした。
勝利して喜ぶ東の人達。
会場は、東西入り乱れて、最高潮へ。
鉦鼓隊、旗頭、女踊りで盛り上がります。
落ち着いた後は、棒術。
東と一緒に、東御物構広場に戻ります。
光る旗頭が、幻想的でした。
東御物構広場でのガーエー。
2日目は、綱引きは行われずに、前日の綱からカナチ棒を抜いて、ティーンナ(手綱)を外しました。
これが、山垣綱曳き(子供綱引き)用の綱になります。
ティーンナを持って、山垣毛に移動する子供達。
子供達による山垣綱曳き。
綱が切れてしまいしたが、東の綱が切れたので、西の勝利になったようでした。
山垣橋に移動後、国場川の支流・長堂川に綱を流して厄払いをしました。
この辺りは、「長嶺按司の伝説」では、長嶺按司と仲間按司が戦った場所です。
津嘉山小学校に帰った後、西の道ジュネーで西御物構広場へ戻りました。
西の二番旗(旗字:豊歳)の旗頭。
道ジュネーは、ギュウギュウでした。笑
最後に、西御物構広場での鉦鼓隊のガーエー。
2日間、大綱引きを楽しめました。
この規模の綱引きを、南風原町ではなく、一つの字(津嘉山)で行っているのは凄いですね。
地図をGoogleマップで表示
← 前の記事:うるま市の屋慶名大綱引き 2024
次の記事:南風原町兼城の綱引き 2024 →