昨日(旧暦8月15日)、本部町備瀬の豊年祭を見学して来ました。
これまでのブログで道ジュネー琉球舞踊を紹介したので、今回は最終演目の組踊「忠臣護佐丸」。
「忠臣護佐丸」は、出演者数が30名を超える大作です。
野外舞台での組踊の上演は、雰囲気が出て最高でした。
「忠臣護佐丸」は、『琉球新報 明治34年6月19日2面』の記事中の「阿麻和利征討記を脚色して護佐丸義臣伝とか何とか名づけたる新作」が初演と考えられています。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

まずは、敵役の勝連按司・阿摩和利の登場。
天下を取るために首里城を狙っていますが、その為に中城按司・護佐丸を討ち果たすことを決意。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

阿摩和利たちは、船で与那原の浜へ。
首里城を目指します。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

首里城主の尚泰久王に、中城按司・護佐丸が謀反を企てていると密告。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

尚泰久王は護佐丸を信頼していたので、西原比屋に護佐丸の様子を探らせます。
しかし西原比屋は、護佐丸が鍛冶職人を集めて武具を生産していることを、尚泰久王に報告。
尚泰久王は、とうとう護佐丸を討ち取る命令を出します。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

一方、護佐丸は中城城で月見の宴の最中。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

阿摩和利たちが、王家の旗を掲げて宴に乱入。
※この投稿の一番最初の画像も見てください。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

護佐丸は、妻子たちが敵の手にかかるよりも、自分の手で殺すことを選びます。

古典組踊は冊封使節を対して演じられるので、死体が転がる場面は、舞台上ではなく幕内です。
この場面からも、この組踊が琉球王府が消滅した明治以降に創られたことが分かります。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

そして護佐丸は、最後に自害。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

乳母が、護佐丸の三男・亀千代を抱きかかえて逃げます。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

阿摩和利の御室(室は妻を意味します)・をなざら(尚泰久王の娘、護佐丸の孫)と家臣の大城大主は、阿摩和利の野望を見抜いて逃げ出します。
大城大主は鬼大城と呼ばれ、武芸に優れた武将でした。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

計画がばれた阿摩和利は、急いで首里城に攻め入ります。
しかし、大城大主と戦って、敗走。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

成長した護佐丸の三男・亀千代が、尚泰久王に謁見。
大城大主と共に、阿摩和利を討つことを願い出ます。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

大城大主は阿摩和利と刀を交えますが、またも取り逃がします。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

阿摩和利は女装して逃亡。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

しかし、大城大主に見破られ、最後の戦い。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

見事、亀千代が阿摩和利を討ち取りました。

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

組踊(忠臣護佐丸)@本部町備瀬区豊年祭

豊年祭の最後はカチャーシー。
舞台の出演者も観ていた人達も、楽しそうに踊っていました。

カチャーシー@本部町備瀬区豊年祭

午後4時の道ジュネーから始まって、組踊が終了したのが午後9時半。
大満足の一日でした。

本部町の備瀬区豊年祭 その3(組踊)の地図
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