那覇市与儀公園にあるSLのデゴイチ(D51 222)について、主に当時の新聞を調べてみました。
その結果、山田辰二郎さん(門司駅旅行案内センター、国鉄門司駅助役)が、1973(昭和48)年に沖縄にデゴイチを贈ることに中心的な役割を果たしていました。
輸送費を募金で集める等、大変な苦労をされたようです。
デゴイチを贈るきっかけは、1972(昭和47)年、山田さんが企画した「里親運動」でした。
これは、沖縄の祖国復帰と鉄道開業百年を記念して、沖縄の小学生72人を、北九州市小倉の国鉄職員の家庭に招待するというものです。
子ども達は北九州市に滞在中(7月28日~8月3日)、D51機関車の工場やプロ野球のナイター(南海-西鉄戦)、関門海底トンネル、サーカス等を楽しみました。

与儀公園でのデゴイチの譲渡式(1973.3.8)
デゴイチの譲渡式『沖縄タイムス 1973.3.9』より
沖縄が日本に復帰した1972(昭和47)年、門司駅旅行案内センターに勤務していた山田さんは、復帰祝賀旅行団を企画し、沖縄へ旅行客を送り出していました。

山田さんが沖縄の子供たちを本土に招く「里親運動」を起こした経緯については、本土側の新聞で知ることが出来ます。

「門鉄で“百人里親運動”復帰の本土知ってネ」毎日新聞(西部本社版)1972.2.23夕刊6面
『毎日新聞(西部本社版)1972.2.23』夕刊6面
『毎日新聞(西部本社版)1972.2.23』の記事「門鉄で“百人里親運動”復帰の本土知ってネ」からの抜粋。
「北九州市内の国鉄職員家庭の間で、今夏沖縄の母子家庭児童を招く“百人里親運動”が広まっている。…本土の人々が沖縄に行くのもいい。しかし、それ以上に沖縄の人たちこそ二十六年ぶりに復帰できる本土の実態をその目で確かめたいのでは?。「せめて沖縄の子どもたちだけでも自分たちで招けたら」1人の着想が口伝えに市内の各駅、機関区、客貨車区、門鉄病院、門鉄局へと広がったのがこの運動。…」

「沖縄の子の里親になろう」朝日新聞(西部版)1972.5.13夕刊8面
『朝日新聞(西部版)1972.5.13』夕刊8面
『毎日新聞(西部本社版)1972.2.23』の記事「沖縄の子の里親になろう」からの抜粋。
「恵まれない沖縄の子どもたちの里親になろう、という運動が広がっている。この運動を提唱したのは北九州市門司区藤松、国鉄門司駅助役山田辰二郎さん(四四)…だが、本土から送り出すばかりでは一方通行になるし、沖縄の心を理解することはできないと、考えていくうち、里親運動を思いついた。沖縄には国鉄がない。子どもたちは平岩弓枝作の「旅路」を読んで鉄道を勉強している。ことしは鉄道百年と沖縄復帰の年。北九州市民百万、沖縄県民百万。「そうだ。百人の沖縄の子らを招き。関門橋などを見せてやろう」。また門司駅の有志二十人にこう話した。「二十六年の長い歳月は、沖縄の人々には忍耐の連続。その苦労は想像できない。ささやかだが、私たちにできることとして、沖縄の子どもをわが家に招き、はじめて知る本土の家庭の味を自然に感じさせてやろう」…」

※当初は100人の子ども達を招待する計画でしたが、最終的には72人になりました。

「沖縄の美しさを話したい」琉球新報1972.7.28朝刊13面
『琉球新報 1972.7.28』朝刊13面
『琉球新報 1972.7.28』の記事「沖縄の美しさを話したい」からの抜粋。
「…二十七日午後六時、那覇出港の鹿児島航路とうきょう丸で北九州市在国鉄職員から招待を受けた那覇市内の小学生七十二人(団長・仲宗根弘明那覇市教育委員会指導主事)が、父兄や友人、先生らに見送られて元気に北九州に出発した。…」

「ようこそ、沖縄の子ら」毎日新聞(西部本社版)1972.7.29朝刊18面
『毎日新聞(西部本社版)1972.7.29』朝刊18面
『毎日新聞(西部本社版)1972.7.29』の記事「ようこそ、沖縄の子ら “一日里親”のもとへ 北九州」からの抜粋
「ようこそ、沖縄のお友だち。門司鉄道管理局が国鉄創業百年と沖縄の本土復帰を記念して”里子”に招いた那覇市の小学生七十二人が二十八日午後七時四十三分、小倉着の特別快速電車で、北九州市に着いた。…駅のホームには門鉄職員や”里親”の家族ら約二百人が出迎え。門鉄ブラスバンドが鉄道唱歌マーチと沖縄民謡を演奏するなかで「いらっしゃい。長旅で疲れたでしょう」となごやかな交歓。…」

「元気に北九州入り」琉球新報1972.7.29夕刊3面
『琉球新報 1972.7.29』夕刊3面
『琉球新報 1972.7.29』の記事「元気に北九州入り 鉄道開業100年記念の招待学童」からの抜粋
「…「祖国復帰と鉄道開業百年を記念して沖縄の小学生を夏休みに本土へ招待しよう」と門司、小倉など北九州市各駅の国鉄職員が里親を申し出て招いた那覇、浦添市内の小学五、六年生七十二人が電車からホームに降り立った。二十七日夕、那覇港を船で出発、西鹿児島駅から特急有明2号、快速電車と乗り継いで小倉駅に着いた。本土を知らない”沖縄っ子”たちだ。テレビや本でしか見たことがなかった鉄道にみんな存分乗れた。…」

「ナイターを楽しむ 門鉄職員の家族が招いた沖縄の子ども」朝日新聞(西部版)1972.7.31朝刊13面
『朝日新聞(西部版)1972.7.31』朝刊13面
『朝日新聞(西部版)1972.7.31』の記事「ナイターを楽しむ 門鉄職員の家族が招いた沖縄の子ども」からの抜粋
「鉄道百周年記念に、門司鉄道管理局職員の家族が招いた沖縄の子どもたち七十二人が三十日、小倉球場であったナイター南海-西鉄戦を観戦した。テレビ中継でプロ野球を見たことはあってもナマのナイターはみんな初めて。球場側の無料招待で、一塁側の西鉄内野スタンドからホームランやファインプレーにやんやの声援を送っていた。…」

「最新輪転機に大喜び 沖縄の子ら本社を見学」毎日新聞(西部本社版)1972.8.1朝刊12面
『毎日新聞(西部本社版)1972.8.1』朝刊12面
『毎日新聞(西部本社版)1972.8.1』の記事「最新輪転機に大喜び 沖縄の子ら本社を見学」からの抜粋。
「北九州市を訪れている沖縄の小学生約七十人が三十一日午後、小倉区紺屋町の毎日新聞西部本社を見学、新聞づくりの工程を勉強した。この子供たちは国鉄創業百年と沖縄の祖国復帰を記念して門司駅職員の有志が招待した那覇市内の小学生五、六年生で、七月二十八日に北九州市入り、二日まで国鉄職員の家に泊まり、市内を見学している。…これに先立って、午前中訪問した北九州市役所では、平良那覇市長のメッセージを谷市長に手渡したて”チビッ子親善使節”の役を果たした。…」

「夢のような夏休み 九州招待の子供たち」沖縄タイムス1972.8.3夕刊3面
『沖縄タイムス 1972.8.3』夕刊3面
『沖縄タイムス 1972.8.3』の記事「夢のような夏休み 九州招待の子供たち あす帰る」からの抜粋。
「…鉄道敷設百年と沖縄の本土復帰を記念して門司鉄道管理局の職員有志(代表・山田辰二郎門司駅助役)に招かれた沖縄の小学生、那覇市小禄六年仲村元子さんら七十二人は、七月二十七日夕方に北九州市小倉駅へ着いていらい、里親となった国鉄職員の家で家族の一員として楽しい夏休みをすごした。関門海底トンネルも通った。D51機関車の工場やプロ野球のナイターも見た。象やチンパンジーが曲芸をするサーカス、森林公園での大合唱やキャンプファイヤーなどで里親や一週間の兄弟、姉妹とともに手をたたいてはしゃぎまわった。…」

その後、沖縄に帰った子供たちの「沖縄にもSLが欲しい」という願いが、山田辰二郎さんら里親になった国鉄職員達の働きで実現に向けて動き出します。
しかし、問題となったのは輸送費の約1,000万円でした。

「SL沖縄へ“発車”待ち 国鉄九州総局が贈る」朝日新聞(西部版)1972.10.29朝刊14面
『朝日新聞(西部版)1972.10.29』朝刊14面
『朝日新聞(西部版)1972.10.29』の記事「SL沖縄へ“発車”待ち 国鉄九州総局が贈る 招待した子供らに 門鉄職員の約束実現へ」からの抜粋。
「国鉄九州総局は鉄道百年を記念して鉄道のない沖縄の子どもたちに蒸気機関車(SL)一両をプレゼントすることにした。この夏、門司鉄道管理局職員が沖縄の子ども七十二人を家庭に招き、北九州市を見物させたとき、子どもたちが一番感激したのは、初めて見るSL。デッカイ、勢いよく蒸気をはき出す姿にみとれた。「そのうち本物をあげます」という約束が実を結んだもので、九州総局長の決裁がおり、あとは形式的な本社のOKを待つだけ。…問題は輸送費で、那覇市が予算化する方針なのは那覇港から同公園まで約二キロを運ぶ費用分だけ。鹿児島港から那覇港まで六百キロ。この船便にかかる費用は約一千万円。…」

※当時の国鉄九州総局長は、沖縄出身の伊江朝雄。
この事も、沖縄へデゴイチを贈る助けになったと思います。

「沖縄の子に SLのお年玉」毎日新聞(西部本社版)昭和48.1.12朝刊13面
『毎日新聞(西部本社版)昭和48.1.12』朝刊13面
『毎日新聞(西部本社版)昭和48.1.12』の記事「沖縄の子に SLのお年玉 全国から”善意”続々」からの抜粋。
「門鉄局職員が昨年夏“一日里親”になって、沖縄の子供たち七十二人を北九州市に招待したが、子供たちが一番喜んだのは、勢いよく煙をはいて走るSLだった。沖縄に帰った子供たちが書きつづった作文も、ほとんどがSLについてだった。そこで里親たちは、子供たちにSLをプレゼントすることを計画。…ところが沖縄までの輸送費などは一千万近くかかる。もちろん国鉄当局はそんな金は出してくれず、里親たちは全職員にカンパを呼びかけることにした。…」

※募金は、最終的には約1,400万円が集まったそうです。

「D51竹園丸に積み込む 1日に那覇港に入港」琉球新報1973.2.27朝刊9面
『琉球新報 1973.2.27』朝刊9面
『琉球新報 1973.2.27』の記事「D51竹園丸に積み込む 1日に那覇港に入港」からの抜粋。
「…”沖縄にSLを贈ろう”という国鉄職員の善意が実り、二十六日鹿児島南港で、SL(蒸気機関車)D51(デゴイチ)の船積み作業が行われた。…船積み作業は同日午前八時半から始まり、ボイラーとキャビンなど四つに分解されたD51 222号機関車を、作業員十人がクレーン船で約四時間かかって琉球海運所属の貨物船竹園丸(一、三一二トン)に積み込んだ。…」

※山田さんは、初めD51(デイゴ=沖縄の県花)の784番(ナハシ=那覇市)を探しましたが、少し前に新津機関区(新潟)でスクラップにされた後でした。
タイミング良く見つかったのは、廃車予定の南延岡機関区所属のD51 222。
222番は、SLの多くが民間工場製の中、南延岡機関区所属の小倉工場で作られたD51で、しかも最初に大里機関区(門司機関区の前身)に配属された車体でした。
北九州市の門司駅の山田さんとの不思議な縁を感じますね。

「ようこそデゴイチ」琉球新報1973.3.2朝刊10面
『琉球新報 1973.3.2』朝刊10面
『琉球新報 1973.3.2』の記事「ようこそデゴイチ」からの抜粋。
「デゴイチ(蒸気機関車、D51型222)が沖縄にはじめておめみえした。沖縄の小さなSLファンの情操教育に役立ててもらおうと国鉄九州総局から贈られたもの。一日午前、那覇入港の竹園丸で運ばれてきたデゴイチは、同日午後一時からさっそく荷役作業をはじめた。…」

「与儀公園に“どっしり”蒸気機関車D51」沖縄タイムス1973.3.3朝刊11面
『沖縄タイムス 1973.3.3』朝刊11面
『沖縄タイムス 1973.3.3』の記事「与儀公園に“どっしり”蒸気機関車D51」からの抜粋
「…那覇港に陸揚げされたデゴイチは二日午前一時ごろトレーラーで与儀公園に運ばれ、夜明けとともに、さっそく取りつけ作業。二台の大型クレーンで機関車のボディがゆっくりとつりあげられ、二本のレールの上に降ろされた。このあと機関部や石炭をたくテンダー、運転室がつぎつぎ取りつけられ、夕方までには「デゴイチ」のどっしりとした偉容がととのった。…「デゴイチを沖縄の子どもたちに贈るきっかけをつくった門司鉄道管理局からは山田辰二郎助役も同行「これでやっと大任をはたした思いです。沖縄のデイゴにちなんでD51号を選んだわけですが、蒸気機関車を見たことのない沖縄のこどもたちに喜んでもらえれば幸い」とニコニコ。…」

「新しい国鉄と観光ポスター展 D51機関車那覇市保存記念」沖縄タイムス1973.3.7夕刊2面
山形屋の広告(新しい国鉄と観光ポスター展 D51機関車那覇市保存記念)『沖縄タイムス 1973.3.7』より
「D51発車!いつまでもつか」琉球新報1973.3.9朝刊11面
『琉球新報 1973.3.9』朝刊11面
『琉球新報 1973.3.9』の記事「児童、汽笛に歓声 D51譲渡式」からの抜粋。
「デゴイチの譲渡式は国鉄、那覇市、児童生徒、それに一般市民らおよそ七千人余が見守るなかで、八日午後二時から与儀公園で行なわれた。国鉄の伊江九州総局長、平良市長、与儀小学校五年生の桃原道子さんがテープカット。引き続き南延岡機関区の山崎機関士、南助士が桑江正博機関士(若狭小六年)と冨永正哉助士(識名小五年)にハンドルとショベルの引き継ぎがなされた。このあと桑江、冨永両君はデゴイチの運転席に乗り、上原尚子那覇駅長(与儀小五年)島袋隆車掌(開南小六年)の合図で機関車は黒い煙を吐きながら「ブォーッ」と汽笛を高らかに鳴らし“発車”した。…」

※「煙を吐きながら「ブォーッ」と汽笛を高らかに鳴らし」は、当時ボイラーが動いていた証拠で、SL展示において非常に珍しいです。
普通は外見だけを復元する静的保存で、配管などの組み立てが必要なボイラーの復元まではしません。
おそらくD51 222は引退したばかりで、労働基準監督署のボイラー使用許可が残っていたと思われます。

「汽笛に大歓声 きのう与儀公園で譲渡式」沖縄タイムス1973.3.9朝刊11面
『沖縄タイムス 1973.3.9』朝刊11面
『沖縄タイムス 1973.3.9』の記事「汽笛に大歓声 きのう与儀公園で譲渡式」からの抜粋。
「ポッ、ポーッ。D51機関車の汽笛がなんども国鉄職員との別れを惜しむかのように響く。八日午後二時からD51譲渡式那覇市、与儀公園で伊江朝雄国鉄九州総局長ら国鉄職員、平良那覇市長、那覇市内の小学生約五百人が出席して開かれた。…一方、“にわか那覇駅”となった与儀公園にはD51を見ようと子どもや大人もわんさか。国鉄職員が駅弁売りに扮して、“ベントウ、ベトウ”。ホンモノの汽車や駅を知らない子どもたちは大よろこび“弁当”ならぬミカンを無料配布して国鉄も大サービスだった。」

「汽笛に大歓声 きのう与儀公園で譲渡式」沖縄タイムス1973.3.9朝刊11面
『沖縄タイムス 1973.3.9』朝刊11面
今回の調査も、新聞をめくり続けて大変でした。汗
沖縄の本土復帰の時、沖縄の子ども達の為に尽力してくれた山田辰二郎さん達に感謝ですね。

更新日:


デゴイチ(D51 222)、与儀公園(沖縄県那覇市)の地図
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